あれ?今まで私が読んできた梨木香歩さんの作品とは、何かが違う感じがする。
少々湿度の高い、美しい情緒のある世界は、同じ雰囲気。
けれどこの『沼地のある森をぬけて』は、梨木作品特有の突き詰めてくる痛みや悔恨がない。いや、在るのかも知れないが、私には迫ってこない。いつも梨木作品から迫ってくる、あの痛みから逃げ惑っていた私には、ちょっと安心。
時子叔母の死により主人公の私・上淵久美が相続したのは、先祖伝来の家宝・「ぬか床」。もう一人の叔母・加代子によれば、久美には「ぬか床用の素質」があるという。
朝に晩にかき混ぜるそれに、いつの間にか入れた覚えのない卵が。1つ目が割れた時、透明に透ける少年が現れた。幼馴染のフリオがその少年「光彦」を引き取ると、次に現れたのは未だ口しか定かにない顔つきで、着物を着て三味線をかき鳴らす「カッサンドラ」と、蛾のようにひらひらと家の中を飛び回る彼女の「目」。カッサンドラの不吉な悪口雑言とぬか床の臭気に耐えかね、ぬか床に芥子粉を投入すると、カッサンドラは消滅した。
ホラーかと思いました。最初は。
しかし・・・「ぬか床」。更にそこへ漬けた野菜はとっても美味しいぬか漬けになるという。なんかの呪いか?
いえいえ、そうではありません。
そのぬか床はなんと、進化の過程で現在の生物とは全く違う繁栄の仕方を身につけてきた、まるきり別種の生物の「胎」たる沼の一部だというのだ。
それがわかるのは、大分終章に近づいてからなんだけど。
現実家な久美が、ぬか床と一族の秘密に近づこうとするうち、時子叔母の友人で男性女性という性を持ちたくないと拒む風野さんと知り合い、彼と共に故郷の島を訪ねることにする。島の村は既に滅びていたが、同時期に島へ渡った不思議な男・富士さんに渡された先祖の資料を読み、曾祖父母の島からの出奔の真相を知る。そして、富士さんの正体が明かされ、また沼の真実も明かされる。久美は、沼に「ぬか床」を還す。新しい可能性が、生まれるのかも知れない。
そういったファンタジックではあるけれど現実世界の物語に、「かつて風に靡く白銀の草原があったシマの話Ⅰ~Ⅲ」という、異世界めいた不思議な物語が挿入されていく。
どうやら、その世界は「沼」の生物繁殖を語る物語のようだ。
儚い浮遊感に支えられ、真実は語られず、「僕」の憶測のみで進む物語。そして、僕は「シマ」を取り囲み、世界(海)とシマを分ける水門を開き、ウォールを壊す者となる。新しい、生命の、可能性として。
~~世界は最初、たった一つの細胞から始まった。この細胞は夢を見ている。ずっと未来永劫、自分が「在り続ける」夢だ。~~ (本文より引用)
それを極めたのが、「沼」の世界。
反して変化し、雌雄生殖で仲間を増やすことを始めた、新しき種族である現在の主要な生物たち(我々人間も含む)。
そして、沼は新しい展開を迎える。久美の曾祖父母の島出奔から、久美の「ぬか床」返還によって。いずれ、新しい方法で、命は生まれるのだろう。
その方法は、描かれてはいない。きっとそれは、梨木さんの中にある。いずれ物語にするのか、読者の想像に全てを委ねるのか、今は判らないが。どちらでも、面白いと思う。実際私は、「沼」の生命体の今後の進化・発展に妄想を走らせました(笑)。
久美の相方が風野さんというのは、最初よくわからなかったのだけど、風野さんの理想が「沼」の繁栄方法に重なる、というところで納得がいきました。風野さんは、雌雄のない、菌類でありたかったのかもしれない。私は、菌類のような繁栄方法は、ちょっとさびし過ぎるかな~と思うのですが、どうなんでしょうね。争い事はきっと少ないですよね、そういう世界は。
個人的には、「カッサンドラ」が沼地ゆかりの人々にどんな言葉を投げかけていったか、そういうストーリーの方も気になりましたね。そういうのって、ちょっとダークファンタジー調でしょ?ぬか床(沼の新しい可能性)を預かる人々の、心臓麻痺を起こすほどの暗部を抉った「カッサンドラ(=ジョーカー)」の発言。「ひと」が何に恐れを抱くのか、それをコントロールする存在とは、・・・そんな部分は描かれなかったですからね。
でも逆に描かれたらこの作品は、私にとって畏怖の対象になってしまって、内容を楽しむ物語になり得たかどうか・・・。物語とは、難しいものですなぁ。
物語の最初と最後に、生まれ出ずる生命に対する会話があります。たぶんプロローグは時子叔母から久美の母・佳子へ、エピローグは母の佳子から時子叔母へ。その生命とは、久美のようです。
ですが・・・、ホントに水無月・Rの勝手な妄想ですが、これは、もしかすると、ぬか床と沼の融合による、新しい生命の始まりすらも示唆してるんではないでしょうか。
新しい生命のあり方に不安を持ちつつも、輝ける新しい命に抱く希望を抱いて。
その、輝ける新しい命は、久美と風野さんが見つけ出すのではないかと。
~~この、壮大な命の流れの
最先端に、あなたは立つ
たった独りで
顔をあげて
生まれておいで
輝く、命よ~~ (本文より引用)
生命というものは、美しくもおそろしい。変化しながら、進化してゆく。いのちは、まばゆい。
(2008.06.03 読了)
この記事へのコメント
やぎっちょ
ちょうど昨日西條奈加さんの「烏金」にぬか床が出てきて、今日スーパーで糠のついた漬物が売られているのを見て、なんにも知らない人は「この糠ごと漬物を食べて、うわまずっ、何これ洗うの?」とか思うんだろうなぁ、などという何の生産性も、明るい夢と希望もないことを考えていました。
そういえば梨木さんも新刊が出ないですね。西の魔女~が映画上映・・・もうされているのかな。ちょっと興味あります★
すずな
この作品を読んだ時に、糠床から生命が・・・なんて、日本人にしか書けないお話だろうなぁ、と唸ったのを憶えています。そして、しばらくは糠漬けに手が出なかったりもしましたし~(笑)
個人的には「種の保存」について、なるほどな~という答えの一端をもらえた作品でもありました。
水無月・R
ぬか床は触ったことがないのでわからないんですが、ぬか漬けはもちろん食べた事あります(笑)。
確かに、知らない人はぬかがついたまま食べちゃいそうな・・・。
私はあの痛みが迫ってくる梨木さんの作風は嫌いじゃないんですが、気持ち的に余裕がない時は読めないので、おいおい未読に取り掛かってゆきたいと思っています。
新刊出ても、すぐには読めないかな~。
>すずなさん。
ぬか漬けはやっぱり日本固有文化ですかね?
ぬか床は触ったことないけど、ねっとりとした触感のイメージがあり、それをベースに物語を感覚的にとらえると…うわ、足を取られて溺れそうかも(^_^;)。
輝ける、新しい命の可能性。
「種の保存」の欲求の源は・・・。
いろいろなことを考えさせられました。
ERI
しかし、私がこれを読んだのが、もう二年以上前かと思うと、時間の早さというのにびっくりです。
糠床って、そんなにねっとりしてないんですよ。よく書き混ぜてある糠床は、いい感じの手触りで、かき混ぜるのが、結構快感だったりします。おっと・・しかし、私はまだ今年、冷蔵庫に封印してある糠床を、開けてない!!そこに何か生まれてたら、どうしましょう・・(そんな事はないって)
水無月・R
おぉ!ぬか床をお持ちですか!
いやいや、この作品を読んだ後は、ぬか床を目覚めさせるのがちょっと怖いかも知れませんよ。卵、出てくるかも?!ドキドキ…。
ぬか床の手触り、ねっとりしてないんですかぁ…知らなかったです。ひとつ賢くなれました!(^^)!
june
水無月・Rさんも梨木さんの作品から迫ってくる痛さを感じていたんですね。私も梨木さんの作品は読むのがすごく怖い部分があるんです。作品によっては厳しいというか、ざっくり斬りつけられるような気がすることすらあって・・。
これは生命の壮大さだとか、壮大すぎる恐ろしさは感じたけれど、私も大丈夫でした。
水無月・R
そうなんですよ~。梨木さんの作品は、読んでてすごく痛い時があります。なので、気持ちの余裕がある時に一念発起しないと読めないという・・・。文体や作風が好きだし、その痛みすら、正面から向き合えずにいますが、否定はできません。
だから梨木さんの作品は、これからも読み続けていたいです。
麻巳美(まみみ)
ぼやんと記憶していた物語をきれいに思い出させてくれた(あげくわかっていなかったところを解説してくださった)水無月・Rさんに感謝です!そうか、そういうお話だったのか……
梨木ワールドは魅力的なんですが、どうもわたしと波長が合わないのか理解力が足らないだけなのか、イマイチわけのわからないまま終わる作品が多いんですが。この作品はわかんないなりにも納得できた稀有な物語でした。
みなさんのいう「痛さ」、わたしにも理解できるときがくるといいなぁ。
水無月・R
梨木さんの作品の世界は、「自分と向き合う」とか「過去を取り戻したいと切望する」とか、そういったところが辛いと言うか痛い気がします。それは多分、私が弱い人間だからだと思います。
それを突き詰めるのが怖くて、読むのが恐ろしい。そんな風にとらえています。
もちろん、未来に光が見えるような、そんな終わり方がほとんどなので、辛いながら読めるのですが・・・。