中島敦 『山月記』。
高校の国語の教科書に載ってた短編。
本書著者柳広司さんも、高校生の時に出会った作品である、と「あとがき」に書いてましたね。
膨れ上がる自尊心に押しつぶされて、虎になった李徴。
思春期特有の「生き辛さ」をいまだ引きずり、非凡の才に憧れていた高校生の私は、その李徴の境遇に共感とも憧れともつかない、強い感情を覚えたものです。
・・・なんか、中二病っぽいですな、今考えると(笑)。
『虎と月』はその『山月記』を、ヤングアダルト向けのミステリーとして描いた物語です。
主人公は、李徴の息子である。十年前父親が失踪し、虎になったその父と遭遇したという手紙を、袁傪という役人から受け取っている。ある日、はたと「自分も虎になるのではないか」という疑念にかられ、その答えを得るために、袁傪氏を訪ねる旅に出る。
都・長安に袁傪氏はおらず、所在も明かせないといわれ、袁傪氏が父に出会ったという地方の村を目指す。当の村で父の話をすると、なんだか妙な反応が返ってきて…。
村に徴兵役人が現れ、徴兵の騒ぎに巻き込まれた僕は、「父がどうして虎になったか」を知ることになる。
なるほどですねぇ。軽めのミステリに仕立て、14歳の「僕」が父が『虎』になった理由を知る過程で、深く思慮を持つようになり、広い世の中のことを知り、考え、成長してゆく。もともと父親は若干二十歳で科挙に合格するような秀才、「僕」も頭はいいのだ。
物語の終わりに村を去った「僕」は、一匹の猛虎と遭遇する。
虎は二声三声咆哮し、元の叢に躍り入り、再びその姿を見なかった。・・・という。
このあと〈僕〉はどうするのだろうか。
袁傪氏の屋敷に戻り、故郷へ帰るのか。
袁傪氏の屋敷で書生にしてもらうのか。
父が「虎」になった過程を鑑み、それに倣おうとするのか。
どれもありうるけど、どれでもないかもしれない。
14歳の少年は、未だ何者にもなっていない。
いやあ、高校生の時に読んだ「自尊心の肥大ゆえに現実と折り合えなくなり、虎となった男」の悲哀を描いた物語が、こんな風に「少年の成長物語」になるんですねぇ。すごいです。
『山月記』の印象を見事なまでにひっくり返され、それでも物語の展開には齟齬がなく、李徴が虎になった理由もとても納得がいくんですから。
ただまあ、未だに〈あの頃の生き辛さ〉を忘れきれてない私(笑)としては、自尊心と羞恥心のせめぎ合いが色濃く描かれる、中島敦『山月記』の方が好きかな。
そうそう。
「僕」がとても李徴の息子らしいなあと思ったのが「言葉」と「その名を与えられ僕が認識した物」の関係のエピソード。
名前を知らなければ、それはただの木々で何の印象も残さないでただ通り過ぎるけれど、固有の品種名を知れば一本一本に気持ちが向き、鮮やかな風景となる「僕」。
そのうち、品種名では個々の個性を区別せずにひとくくりにしてしまい、その美しさ素晴らしさが自分の手からこぼれおちてしまうことに気付いてしまった李徴。
まあ、李徴の言うことは正しいんだけどねぇ。そこまで神経質に物事とらえてると、疲れちゃいますよな~(笑)。
「僕」がここまで思い詰めずに、もっとおおらかに世の中を渡っていけるようになるといいなあ、とあまり物語と関係ない感想を持ったりしました。
(2016.09.09 読了)
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